MENU
ヨシラバー(yoshilover)がお伝えするメジャーメディアです。

山本キッドはハーフ?家族構成家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

山本キッドはハーフ?家族構成家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

「神の子」と呼ばれ、日本の格闘技界に鮮烈な印象を残した山本“KID”徳郁選手。

その強さとカリスマ性は今も多くのファンの心に刻まれています。

しかし、彼のルーツである「ハーフ説」の真相や、父・山本郁榮氏、母・山本憲子さん、そしてレスリング世界女王である姉妹といった「山本家」の詳しい家族構成や家系図については、意外と知られていない部分も多いのではないでしょうか。

この記事では、KID選手本人の発言や公的記録、関係者の証言を基に、彼の出自の謎、オリンピアンの父・郁榮氏の教育哲学、日本初の女性レスリング審判員であった母・憲子さんの献身、そして彼を支え続けた家族の絆に深く迫ります。知られざる山本“KID”徳郁と山本家の物語を紐解いていきましょう。

項目内容
本名岡部 徳郁(おかべ のりふみ、旧姓:山本)
通称・ニックネーム山本“KID”徳郁(やまもと キッド のりふみ)、神の子
生年月日1977年3月15日
没年月日2018年9月18日(享年41歳)
出身地神奈川県川崎市
身長163cm(162.6cmの記載もあり)
体重59.8kg~66kg(時期・階級により異なる)
血液型B型
所属PUREBRED大宮、PUREBRED東京、KILLER BEE、KRAZY BEE、KRAZY BEE糸満
主な階級フェザー級、バンタム級
バックボーンレスリング、修斗
学歴桐蔭学園中学校・高等学校→アリゾナ州マルコス・デ・ニーザン高校(米国)→山梨学院大学
主な経歴全日本学生レスリング選手権優勝、2001年修斗でプロデビュー、2004年K-1参戦、HERO’S初代ミドル級王者、UFC参戦など
家族父:山本郁栄(ミュンヘン五輪レスリング代表)、姉:山本美憂(世界王者)、妹:山本聖子(世界王者)、甥:山本アーセン、義弟:ダルビッシュ有
主な活動格闘家、KRAZY BEE主宰、スポーツジム経営、カレー店経営など
備考2018年にがんで逝去。日本格闘技界のカリスマ的存在。
目次

山本“KID”徳郁はハーフ?

山本“KID”徳郁はハーフ?

格闘技界のカリスマ、山本“KID”徳郁(以下、KID)選手。その圧倒的な強さと個性的なキャラクターは多くのファンを魅了しました。彼のルーツについて「ハーフではないか」という噂がありましたが、実際のところはどうだったのでしょうか。

KID本人が語った「イランのハーフ」発言の背景

KID選手自身が、過去のインタビュー動画で自身の出自について言及したことがあります。その中で彼は「自分。イランのハーフということで一応小学校3年生と4年生の時に。イランに行ってます」と語っています。

この発言は、KID選手自身がイラン系のルーツを持つという認識を持っていたことを示しています。実際に小学校時代にイランへの渡航経験があるという事実は、この発言に具体性を持たせるものです。

この「イランのハーフ」という自己認識が、どのような背景から生まれたのか、両親のどちらかがイラン系であるのか、あるいはさらに祖先のルーツを指すのか、詳細は公表されていません。

しかし、彼自身がそう語ったという事実は、KID選手のアイデンティティを考える上で重要な要素と言えるでしょう。

公的記録と自己認識:国籍は日本

一方で、KID選手の公的な国籍は日本です。本名は岡部 徳郁(旧姓:山本)であり、日本の総合格闘家として活動していました。父親である山本郁榮氏は愛知県出身の日本人であり、レスリングの元オリンピック日本代表です。

KID選手が「岡部」姓で生まれたのは、母親の山本憲子さんが一人娘であったため、母方の姓を継いだという背景があります。後に「山本」姓を使用するようになりました。

これらの情報から、KID選手の公式な国籍は日本であるものの、彼自身の中にはイランとの繋がりを意識する部分があったと考えられます。個人のアイデンティティは、必ずしも公的な国籍と一致するとは限りません。

ハーフと噂された理由:国際的な活動と外見的特徴

KID選手がハーフではないかと噂された背景には、いくつかの要因が考えられます。

まず、彼の国際的な活動が挙げられます。高校時代にはレスリング修行のためにアメリカのアリゾナ州に留学経験があり、その後もUFCなど海外のリングで活躍しました。

このような国際的なキャリアが、彼の出自に関する様々な憶測を呼んだ可能性があります。

また、KID選手独特のルックスも理由の一つかもしれません。はっきりとした目鼻立ちや、晩年のタトゥー、個性的なヘアスタイルなどが、一部で「ハーフなのでは?」という印象を与えたのかもしれません。父親の山本郁榮氏が鹿児島出身であることから、その容貌が影響しているとの記述も見られます。

しかし、これらの要素はあくまで外見的特徴や活動範囲からくる推測であり、彼が「純粋な日本人ではない」という直接的な証拠とはなりません。

公式な情報や本人の発言を総合的に見ると、国籍は日本であり、彼自身がイラン系のルーツを意識していた、というのが実情に近いでしょう。

山本“KID”徳郁の格闘一家・山本家の家族構成と家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

山本“KID”徳郁の格闘一家・山本家の家族構成と家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

山本“KID”徳郁選手を語る上で欠かせないのが、彼を育んだ「格闘一家」としての山本家です。父、母、姉、妹、そして甥に至るまで、多くの家族が格闘技の世界で輝かしい実績を残しています。

父・山本郁榮:オリンピアンであり指導者、そして偉大な父

KID選手の父親である山本郁榮(やまもと いくえい)氏は、日本のレスリング界における重鎮です。

経歴と功績:ミュンヘン五輪出場からスポーツ医学への貢献

1945年2月17日、愛知県高浜市に生まれた郁榮氏は、日本体育大学でレスリングを始め、1972年のミュンヘンオリンピックにレスリング・グレコローマンスタイル57kg級の日本代表として出場し7位入賞を果たしました。全日本選手権では3度の優勝経験があります。一部報道では、ミュンヘン五輪での判定を巡る不運から「幻の金メダル」とも称されました。

現役引退後は指導者としての道を歩み、クラブチームやオリンピックコーチを歴任。アメリカ留学で習得した当時最新のテーピング技術を日本に持ち込み、スポーツ医学の発展にも大きく貢献しました。NPO法人日本スポーツネットワーク(JSN)の初代理事長や、自身の名を冠した山本スポーツアカデミー(YSA)、GENスポーツアカデミーの総合ディレクターなどを務め、後進の育成に情熱を注ぎました。現在は日本体育大学スポーツ医学研究室の名誉教授でもあります。

子育て哲学:「褒めて伸ばす」「大きな経験をさせる」

郁榮氏の子育て哲学は独特で、その指導方針が子供たちの才能を大きく開花させました。彼はインタビューで「褒めて育てること。自分で決めさせること」を重視していると語っています。また、「子供には、日本サイズにこだわらない人間に育って欲しかったし、人間的にも大きくなれるように、“常に大きなものを体験”させておこうと思った」「いろいろなことをやらせてあげて、“個性を見抜き、それを伸ばしてあげる”のが親の役目」とも述べており(参考:『「伸ばす」子育て』 https://www.google.com/search?q=suku-noppo.com)、子供たちの自主性と個性を最大限に尊重する教育方針がうかがえます。

「山本家には戦士のDNAが含まれている」と語る郁榮氏の信念と、個々の才能を見極め伸ばす指導法が、KID選手を含む3人の子供たち全員を世界チャンピオンへと導いたと言えるでしょう。

母・山本憲子:日本初の女性レスリング審判員、家族を支えた強さと優しさ

KID選手の母親である山本憲子(やまもと のりこ、旧姓:岡部)さんは、山本家を陰で支えた偉大な女性です。ユーザーの質問にあった「母親山本郁榮」という記述は誤りで、山本郁榮氏は父親です。

経歴と家族への献身:審判資格取得と健康サポート

憲子さんは、郁榮氏と結婚するまではレスリングとは無縁の生活を送っていました。

しかし、結婚後にレスリングの世界に深く関わるようになり、なんと日本人女性として初めてレスリングの公認審判員の資格を取得するという快挙を成し遂げます。当時の日本では女性がスポーツの審判員を務めることは非常に珍しく、時にはコーチや選手から強い反発を受けることもあったと言いますが、彼女は毅然とした態度で職務を全うし、その後の日本における女性レスリング審判員の地位向上に大きく貢献しました。

さらに、健康運動指導士や鍼灸師の資格も取得。これらの資格取得は「すべては愛する家族のために」という純粋な動機からであり、アスリートである夫や子供たちの心身のケアに、専門的な知識をもって積極的に関わろうとした深い愛情の表れと言えるでしょう。

彼女の存在は、表舞台で戦う家族にとって、計り知れない精神的な支柱となっていたはずです。

早すぎる逝去と家族への影響

しかし、憲子さんは1999年に白血病のため、51歳という若さでこの世を去りました。当時KID選手はまだ大学生(大学3年生との情報あり)で、この悲劇は彼を含む家族に計り知れない影響を与えました。

KID選手は母の死後約1週間で行われたトーナメントで優勝し、その悲しみを力に変えたと伝えられています。姉の美憂選手も練習を継続しましたが、妹の聖子選手は一時レスリングを辞めようと考え、大学の寮から実家に戻ったほどでした。

憲子さんの死後、姉妹間に葛藤が生じた時期もあったとされ、彼女がいかに家族の調和を保つ中心的な役割を担っていたかがうかがえます。目立つ存在ではなかったかもしれませんが、山本家の強さの源泉には、憲子さんの深い愛情と献身があったことは間違いありません。

残念ながら、広範な検索にもかかわらず、山本憲子さんの公開されている写真を見つけることはできませんでした。これは、彼女がより伝統的な、表に出ない役割を果たしていたこと、また当時の女性スポーツ関係者がメディアからあまり注目されなかった時代背景を反映しているのかもしれません。

姉・山本美憂:レスリング元世界女王、総合格闘家としての挑戦

KID選手の姉である山本美憂(やまもと みゆう)選手もまた、日本レスリング界のレジェンドの一人です。

「天才少女」と呼ばれたレスリングキャリア

1974年8月4日生まれの美憂選手は、幼い頃からその才能をいかんなく発揮。小学生の時にレスリングを始め、わずか13歳で第1回全日本女子選手権に優勝。そして1991年には、史上最年少の17歳で世界選手権を制覇するという衝撃的なデビューを飾りました。「天才少女」の名をほしいままにし、その後も1994年、1995年と世界選手権を連覇。3度の世界女王に輝きました。

母として、そして総合格闘家へ

一度は現役を退きましたが、後に総合格闘家としてカムバック。KID選手と同じく、厳しい格闘技の世界に再び身を投じました。彼女の息子である山本アーセン選手も総合格闘家として活動しており、山本家の格闘技の血は確実に次世代へと受け継がれています。

妹・山本聖子:レスリング元世界女王、努力で掴んだ栄光

KID選手の妹である山本聖子(やまもと せいこ)選手も、姉の美憂選手に劣らぬ輝かしい実績を持つレスリング元世界女王です。

「努力型」アスリートとしての軌跡と4度の世界制覇

1980年8月22日生まれの聖子選手は、1999年、2000年、2001年、そして2003年と、レスリング世界選手権で実に4度の優勝を果たしています。しかも、その4度の優勝は3つの異なる階級を制覇しての偉業であり、彼女の卓越した実力と適応能力を示しています。

姉の美憂選手が「天才型」と評されるのに対し、聖子選手は「努力型」と称されることが多く、「腹筋1日3000回」という逸話は、彼女の凄まじいまでの努力を物語っています。一度引退した後、現役復帰して見事優勝を飾るなど、その精神力の強さも特筆すべき点です。

ダルビッシュ有投手との結婚と現在

現在は、メジャーリーグで活躍するプロ野球選手のダルビッシュ有投手と結婚し、家庭を築いています。アスリート一家に育った彼女ならではのサポートで、夫を支えています。

甥・山本アーセン:次世代を担う格闘家

山本美憂選手の息子であり、KID選手の甥にあたる山本アーセン(やまもと あーせん)選手も、レスリングをバックボーンに持つ総合格闘家として活躍しています。

1996年9月8日生まれの彼は、叔父であるKID選手や母である美憂選手の背中を追い、山本家の新たな歴史を刻む存在として期待されています。

山本“KID”徳郁の結婚と子供たち

リング上では「神の子」「最強のファイター」として恐れられたKID選手ですが、私生活では愛情深い父親としての一面も持っていました。

モデルMALIA.さんとの結婚と離婚、子供たち

KID選手は2004年8月にモデルのMALIA.(新保真里有)さんと結婚しました。二人の間には、2005年に長男・愛郁(あいく)くん、2006年に長女・アリアちゃんが誕生しています。MALIA.さんにとっては長男は第二子にあたります。

MALIA.さんは、娘さんが生まれた時のKID選手の様子について、「あなたが産まれてきた瞬間 誰よりも感動したのはパパだったの。ママに抱きついてわんわん泣いて涙が 止まらなくて…」とブログで語っており(参考:Yorozoonews)、リング上の獰猛な姿とは対照的な、情愛深い父親としての一面がうかがえます。しかし、二人は2009年8月に離婚しています。

再婚相手との間に生まれた子供たちと父親としての一面

その後、KID選手は一般女性のユイさんと再婚しました。彼女との間には、2014年11月25日に次女となる千(せん)ちゃん、2017年8月には三女となる虎(とら)ちゃんが誕生しています。

二番目の妻となったユイさんはKID選手より9歳年下で、彼が怪我や事業の不振など困難な時期にあった際に、大きな精神的支えとなったと報じられています。2018年の報道では、当時3歳の長女と手を繋ぎ、生まれたばかりの次女を抱く妻に寄り添うKID選手の「満面の笑み」が伝えられており、穏やかで幸せな家庭を築いていた様子がうかがえます。

これらのエピソードは、KID選手がリングで見せる戦士の顔の裏に、家族を深く愛し、子供たちの誕生に涙するほど感情豊かな父親であったことを示しています。

山本Kidの家族や子供たちの記事は下記にあります。

山本“KID”徳郁の人物像:リングの外での素顔と家族の絆

山本“KID”徳郁の人物像:リングの外での素顔と家族の絆

山本“KID”徳郁選手の強さの根源には、天賦の才だけでなく、彼を育んだ特異な家族環境と、そこで培われた強靭な精神力、そして深い家族愛がありました。

「神の子」の由来と家族背景

KID選手の「神の子」というニックネームは、単に彼の卓越した格闘センスを示すだけでなく、その家族背景にも深く関連していると言われています。父・郁榮氏が元オリンピック日本代表のレスリング選手であり、姉の美憂選手、妹の聖子選手もレスリング元世界女王という、まさに「格闘エリート一家」。

このニックネームには、単なる個人の才能を超え、格闘技界における特別な血筋や運命を背負っているかのような、周囲の期待や畏敬の念が込められていたのではないでしょうか。それは、あたかも神から格闘技の才能を授かったかのような存在として、彼を単なる熟練したファイター以上の特別な存在へと昇華させていたと言えるでしょう。

KIDの闘病生活を支えた家族の絆

2018年8月、KID選手は自身が癌であることを公表し、多くのファンや関係者に衝撃を与えました。同年9月18日、41歳という若さで逝去。彼の闘病生活、そして早すぎる死は、山本家の絆の強さを改めて浮き彫りにしました。

姉の美憂選手は、KID選手の闘病中、彼から「勝ちグセをつけよう」という言葉に励まされ試合に臨んだり、KID選手の治療をサポートするために生活の拠点をグアムに移したりするなど、弟への深い愛情を行動で示しました。

妹の聖子選手は、KID選手を含む家族写真をSNSに投稿し「絆は永遠」とコメント。義理の弟にあたるダルビッシュ有投手も、メディアを通じてKID選手への思いを語るなど、家族全員がKID選手を支え、その死を悼み、彼の魂を胸に刻んでいる様子が伝わってきました。

受け継がれる「山本家のDNA」と不屈の精神

山本家を繋ぐ絆は、単なる血縁関係を超えた、共通の情熱と厳しい試練の共有によって鍛え上げられたものです。父・郁榮氏が子供たちを幼い頃からレスリングの世界で育てたことは、家族の日常そのものが格闘技と共にあることを意味していました。

姉の美憂選手が「トレーニングを一緒にしている方が私らしい家族団らんのカタチなのかなって」と語るように、彼らにとって共に汗を流す時間は、山本家独自の強い絆を育む重要な時間だったのです。

妹の聖子選手は、個性豊かな山本家の中で常に姉と兄を立てる謙虚な人物であったと評されています。また、美憂選手がKID選手の死後も、彼が遺したジム「KRAZY BEE」を守り、「KIDの名に恥じない戦いをしたい」と語る姿は、兄弟間の深い敬愛と責任感の表れです。

山本家の物語は、喜びも苦しみも分かち合い、最大の試練であったKID選手の闘病と死に際しても揺らぐことなく、むしろその結束力を世界に示す形となりました。

彼らの絆は、まさに「戦う家族」としての誇りと、互いへの深い愛情に根差していると言えるでしょう。その不屈の精神は、これからも山本家の伝説として語り継がれていくはずです

まとめ:山本キッドはハーフ?家族構成家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

本記事では、山本“KID”徳郁選手の出自が「イランのハーフ」という自己認識と日本国籍であった事実、そして父・山本郁榮氏、母・山本憲子さん、姉・美憂選手、妹・聖子選手ら「格闘一家」の詳細な家族構成とそれぞれの輝かしい功績を明らかにしてきました。

オリンピアンである父の指導哲学、家族のために尽くした母の愛情、世界を制した姉妹の強さ、そしてKID選手自身の父親としての一面や家族との深い絆は、彼の人間的な魅力をより一層際立たせます。特に、KID選手の闘病生活を支え続けた家族の姿は、山本家の絆の強さを物語っていました。

「神の子」山本“KID”徳郁選手の不滅のレガシーは、この強靭で愛情深い家族の物語と共に、これからも私たちの心に生き続けることでしょう。

山本キッドはハーフ?家族構成家系図?父?母親山本憲子?山本郁榮

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

More
yoshilover'sblogプロ野球好きの管理人のヨシラバーです。!ブログは2017年からやっているよ!住まいは東京です。東京ドームの近くです。スポーツを見にちょいとが高じて知識はほぼ専門家です。幼少期のころから野球の練習・観戦していたため、長年において積み上げた知識は誰にも負けないと自負しています。目指してた野球選手にはなれなかったため発信する場はありません。プロ野球への思いを発信する場としてまたそれが皆様の知識として役立てることができればと思ったことが、このメディアを起こした理由です。

コメント

コメントする

目次